『一所懸命』
今年のはじめより、今の天草はどこから始まったのだろうかと考えるようになった。私は物事を考える時、それは『何処から来て、今、何処にいて、これから、何処へ向かうべきなのか』と思考する習性がある。今の天草は何処から始まったのか?
そのことを考え続けていたら『島原・天草の乱』以前と以後が、かなり違っているのではないかと思うようになった。『島原・天草の乱』以後の天草は、天領となり鈴木重成が初代代官として治めた。この頃の天草は人口が半減したと言われており、全国各地より入植が行われ、今の天草の原型が出来たのではないか。
そして、当時の状況は今の天草によく似ているのではないか。一瞬で人口が半減した当時と、数十年かけ人口が半減しつつある今とでは、人口減少の速度は違うが、島の人口が半分になる危機的状況は酷似している。鈴木重成の時代には、緊急避難的に外部からの入植策で急場をしのいだが、今の人口減少に対応する方策の一つとして考えても、外部から天草に移り住む人を、増やしていく必要があるように思えてならない。
陶芸の産地化は西暦2000年に開催された、県民文化祭『ミレニアム天草』より始まった事業だ。世界有数の陶磁器資源である『天草陶石』を産する天草を、『陶石の産地から、陶磁器の産地へ』という島民の悲願を受け始まった取り組みで、以来18年間継続されている。陶芸への認識も高まり『天草は陶芸が盛んなところですね』と声を掛けられることも多くなった。『天草はどんな産地を目指すのですか』そんな私に対しての問いかけも増えている。
天草は工業的な産地を目指してもおぼつかないだろう。日本は世界的に見ても、工業的な意味での陶芸の先進地が沢山存在するからだ。資本に乏しい天草の陶磁器が目指すべきは、工芸的な産地、すなわち、手を使いアーティカルで多様な陶磁器産地を目指すべきだろう。そう考えた時、鈴木重成の兄である鈴木正三の業績に思い至った。正三は天草の再興のため、弟である鈴木重成に乞われ、天草に来島した禅宗の高僧で、島民の安寧のために寺を建立し、現在の天草の精神的な礎を作った人だ。『破切支丹』を書き、切支丹の教義に対する反論を展開したりもしたが、江戸期以降に成立した、日本人の労働倫理を決定したと言われる『万民徳用』もあらわし、『労働即仏道』を唱えた人でもある。徳川時代以前の徒弟制度を中核とする職制を集約し、日本独自の職業観を示した人だ。『百姓は鍬を持ち、一心不乱に田を耕すことにより仏性へ至る』
一隅を照らす…もとより陶芸家はそういった志を持つべきだと思う。今の言葉で書けば『陶芸家は一心不乱に土と向き合い、天命へ至る』という事だろう。西洋的な労働観が強い『働き方改革』が国の主流となり、労働時間の短縮ばかり言われるが、天草は『働き方復興』を謳い上げるべきではないか。陶芸はもとより、天草には石工の職人も多く存在する。自然環境での製塩に情熱を傾ける人。新鮮な海産物でとびきりの料理を作る職人。腕の確かな大工。これらの人達はすべて明治以前に作られた職業制度で、技術を習得した人たちだ。そういった技を持った職人が、連携しながら天草を作り上げることができれば、他所にない素晴らしい天草が出来上がるはずである。一生懸命。一所懸命。天草復活の鍵はここにあるように思えてならない。
今年の天草大陶磁器展には、110の窯元と30名のクリエイターが全国から集まることとなった。物産関係の出店も21軒。これ以上は天草市民センターに入れないと思うほどの人達が集うこととなる。さらに今年は全国各地から一つの道に精進し、道を極めようとしている、多数の人達に来ていただくこととした。各々のゲストの人たちは、鈴木正三が謂う『一心不乱に努力を重ね、天命を得ようとしている人たち』このような人たちが普通に住めるような島を作ることができれば、天草は素晴らしい島になるに違いない。見果てぬ夢かも知れないが、そんな天草ができればと考えている。
天草大陶磁器展実行委員長 金澤一弘
主催
天草大陶磁器展実行委員会
日時・会場
期日:平成29年11月2日(木) ~ 6日(月)【5日間】
時間:午前9時30分 ~ 午後5時00分(6日は午後4時まで)
会場:天草市民センター(特設会場、展示ホール、大会議室ほか)